博多祇園山笠の歴史

 いろいろ諸説があるが有力な説として「聖一国師施餓鬼棚説」がある。
鎌倉時代仁治2年(1241) 博多の町に疫病が流行し猛威をふるった。承天寺の開山・聖一国師弁円が病魔折伏の辻祈祷を施餓鬼棚に 棒をつけ,町の人々がかつぎまわった。上に乗った国師が甘露水をまいて町中を清めるとさしもの病魔も 退散してしまいました。これが承天寺聖一国師の起源と伝えられている。  タイムを争う追い山の起源は一説によると江戸時代の1687年(貞享4年)という。土居町の助右衛 門という人が娘を堅町の幾右衛門の息子に嫁がせた。その当時正月に娘の里に初めて帰って来たときに町 の若者が花婿に笹水をいう水をかけて祝うという風習があったらしい。ところが,土居町の若者が少し度 を越して桶までかぶせてしまった。これがもとで喧嘩沙汰になったがその場はなんとかおさまった。しか し,その年の山笠の当日たまたま2番山笠の土居町が東長寺あたりで昼食をとっているすきに堅町を含む 官内町の3番山笠が正月の報復にと,食事もとらず追い抜こうとしたからあわてた2番山笠が抜かれてた まるかと駆け出し,それを見ていた町中の者がこれは面白いとはやし立てたことが追い山の起源と言われている。 その後近代に近づき市内電車の電線等により山の高さを低く制限したり,水法被の着用を決めたりするなどの変遷により今日に至っている。

西流(にしながれ)

昭和41年の町界町名整理を機会に旧西町流れを中心に岡流・福神流・恵比寿流・呉服町流・沖浜流の一部が合流して新たにスタートした。新町名の冷泉町・店屋町・綱場町・奈良屋町で構成され世帯数の多い冷泉町は上,下区に分かれ5年に一度当番町がまわってくる。昔からの山崩しも残っている伝統を守る流である

土居流(どいながれ)

櫛田神社の前の通りが土居通。おおまかに言えばこの道路に面した家々が土居流に属する。旧町10カ町で構成。ただ町の規模が異なるので現在は6ブロックで分担している。上新川端町で一つ。大乗寺前町・下土居町で一つ。上土居町・中土居町・・片土居町・川口町で一つ。行町・浜小路・西方寺前町の浜3カ町がそれぞれ一つ。紺色の絣がトレードマーク。

中洲流(なかすながれ)

西日本一の歓楽街の中洲が流区域で新町名の1〜5丁目で構成。当番法被,水法被も統一したものを着用。流出身の井上吉左衛門氏が26年間会長を務め,続いてご子息の井上雅寶氏(現福岡県会議員)がH4から第5代会長につき,人材面でも山笠を支えている。

大黒流(だいこくながれ)

那珂川の支流博多川の下流一帯に沿った一帯が大黒流の地盤である。下川端町・須崎町・対馬小路・麹屋町・古門戸町・寿通・等12カ町で構成・恵比寿流と同様名称は「博多松ばやし」の大黒様(大国主命)。

恵比須流(えびすながれ)

石堂川(御笠川)河口左岸の町々で構成する流でかつては”石堂流”とも呼ばれた。名前は博多松ばやしの恵比須神に由来する。人形は毎年新しい物に替えるがテーマは常に”えべすさま”でふくよかな顔が流の象徴である。

東流(ひがしながれ)

旧東町流に呉服町流,櫛田流の一部などを加えて再発足した流。陸の玄関JR博多駅から北に伸びる「大博通り」の東側が流区域で新町名の上,中,下呉服町と御供所町が中心である。

千代流(ちよながれ)

戦後独自に流を興しS25年正式に博多祇園山笠振興期成会(現博多祇園山笠振興会)に加入。50年近い年輪を重ねている。法被には字体デザインは異なるが”千代”の二文字が染められ一体感が印象づけられる。唯一石堂川東の流である。

上川端通(上川端通)

山笠は戦後流で維持する「かき山」と商店街などが作る「飾り山」に分化したがもともとは一体のものであった。つまり現在飾り山と呼ばれる背の高い山笠そのものをかいていたのである。その往事を彷彿させるのがこの走る飾り山と呼ばれる「上川端通」の山である。高さが役10m,当初はかき山用の短い棒(3間)を使用していたが,平成元年の祭りから昔の長さ(4間)を新調。その櫛田入りは迫力満点である。

流れの紹介

山笠の服装や道具について

衣装

水法被(みずはっぴ)

やまをかくときに羽織る法被。昔は裸でやまをかいていたそうだが,明治の頃より町内毎にそろえた法被をはおるようになったそうだ。勢い水にかかるため水法被と呼ばれる。デザインや色で流れがわかるようになっている。

衣装

手のごい(赤手のごい)

頭にしめる手拭いを博多では手のごいと呼ぶ。役や流れを表し,毎年新しい手のごいを使用する。特に写真上の手のごいは赤手のごいと呼ばれ,かき手の実働部隊のリーダー役の印。この赤手のごいをもらうのが博多の男の憧れである。

衣装

締め込み(しめこみ)

長さ約3m,色は白か紺色が基本。これを締めるときりりと気持ちも引き締まる締め込み。間違っても「ふんどし」とか「まわし」と呼ばないように。町内で色や文様をそろえたり,刺繍を入れたりしている。最近は柔らかい生地のデニム生地タイプなどもある。

道具

かき縄

荒縄をよってつくるかき縄。これを締め込みにさして参加する。これをやまの棒にまいてグッとしめてやまをかく。町内でみんなで縄ないをして,お櫛田さんでお祓いをしていただき,それを使用する。一人分およそ1ヒロ半から2ヒロ程度の長さの荒縄が必要。

道具

山笠たすき

手のごいは階級を表すが,たすきはかき山における職能(ポジション)を表す。追い山ならし,追い山のコースにて使用され,すべてネジリたすきである。『鼻取り』(青と白)山の四隅にある鼻縄をもって方向を決める。『台上がり』(赤と白)山に上がり指揮を取る。『交通整理』(緑と白)車輌等の交通整理をする。『前さばき』(黄と白)山の前を整理し道をあける。

道具
鉄砲(てっぽう)
山の台上部は竹で編んだ網代と杉の葉で作った高さ30センチの杉壁が四方を取り囲んでいる。その要所要所に取り付けられた飾りで,直径7センチ,長さ50センチの程度の赤い布製の筒状のものを鉄砲と呼ぶ。中身は麦藁で祇園宮の神紋がついている。昔台上がりが指揮の際にかき縄を落としてしまい,杉壁の鉄砲を引き抜き使ったところ,評判が良く,以後台上がりの必需品となる。追い山の台上がりの花形道具。
衣装

長法被(ながはっぴ)

水法被に対してこれは長法被と呼ばれる物で久留米絣がほとんど。これも流れでデザインが異なる。やまの期間中の正装として羽織るもので,期間中の話し合いはもとより,結婚式などの会合にも着ていける正装である。これで天皇陛下にもお会いすることができる正装だ,と言うほどである

山笠の日程

7月1日夕

当番町 お汐井取り

流のうち,その年に当番がまわってきた町だけの行事。準備も本格化するので一足先に身を清めておこうというわけだ。お汐井道を通って箱崎浜まで。沈む夕日に手を合わせ15日間の安全を祈るとともに升やテボ(竹製のカゴ)に真砂を入れて持ち帰る。

7月9日夕

全流 お汐井取り

かき山は10日から動き出すのでその前日に参加者全員が真砂を入れて箱崎宮と櫛田神社にお参りし期間中の安全を祈るのがこの行事。少ない流で400人,多い流で1000人を越える。15日間の安全を祈願する意味となまった体に渇を入れる意味もあるようである。

7月10日・14日夕

流れがき

さあ,かき山が動く。流に参加する者がその年の当番町に建てられたかき山笠の前に集合する。当番町の役員は棒の上に座って迎え,今年もよろしくと「手一本」を入れる。初日は流区域をかきまわる。14日追い山前日も最後の練習として流区域内とコースをかいてまわる。

7月11日早朝・夕

早朝 朝山・夕 他流れ

朝山は”祝儀山”とも呼ぶ。町総代らを招いて縁起ものの神酒,肴などを出すことからこう呼ばれる。この行事では台上がりは白麻半天を着るのもしきたり。午前5時から6時にかけてそれぞれの流区域内で行う。同日夕は他流かき。省略している流もあるが明日の追い山ならしの練習に力を入れる流も。

7月12日3:59PM

追い山ならし

文字通り追い山のリハーサル。実施時刻が昼間で走る距離が4qと1q短い以外は本番と同じ。櫛田入りも全コースとも気が抜けない。7流が揃うのもこの日初めて。その年の一番流から順に並び,大太鼓の合図とともに櫛田入り,続いて博多の街をコースに沿って,「オイサ,オイサ」

7月13日3:30PM

集団山見せ

福岡市が観光行政上から要請。S37年から始まった行事である。山笠は商人の町「博多」の行事で,城下町・福岡には関係がない。従って那珂川を渡って福岡に入るには当初わだかまりがあったが,今では理解され7流揃って参加する。明治通りから福岡市役所まで。この行事には台上がりを福博の知名士が務める。
7月15日4:59AM

追い山

7月1日に始まった祭りもこの神事をもって終了する。かき手も見物客も徹夜でこの行事を待つ。2週間の祭りはこの一瞬を迎えるためにあるといっても言い過ぎではない。櫛田神社前の土居通りに午前1時頃からかき山が順番に据えられる。「5分前」「1分前」放送で一気に緊張がピークに達する。午前4時59分櫓の上の大太鼓の合図で1番山が櫛田入り。ご清道旗をまわって”博多祝い唄”の大合唱。再びかき出して博多の街に飛び出していく。2番山は午前5時5分,あとは5分おきにスタート。その名の通り,前を走る山笠を追うのだ。明治以降,全国の多くの祭りが昼間に移行したが,「追い山」は昔ながら”払暁”を守りそれがこの祭りの特徴である。追い山の櫛田入りが済んだ櫛田神社境内では午前6時から「鎮めの能」が奉納される。